レスリングを中心的な物語要素として使用するジャンル。リングは内的葛藤の隠喩。古典:『ザ・レスラー』『ビジョン・クエスト』。
レスリングを題材にした映画は、他のスポーツ映画とは異なる働きをする。リングは競技の場というより、むしろ存在論的な対立の舞台であり、それが決定的な要素となる。レスリング映画を撮るということは、肉体と肉体のぶつかり合いを真剣に捉える美学、すなわち汗、痛み、屈辱、そして勝利が同時に存在する様を扱うということだ。ドラマは勝利(それは事前に予測できる)から生まれるのではなく、その闘いが登場人物について何を明らかにするかから生まれる。
実践においては、それは負荷の下にある顔、掴み、そして離す手に寄るクローズアップを意味する。カメラはスポーツ的な展開を追うのではなく、心理的な展開を追う。ダーレン・アロノフスキー監督の『レスラー』はそれを正確に示している。そこでは、レスラーの肉体は過去の戦場である。あらゆる動きが消耗を物語っている。リングのテクニックは自己目的のために演出されるのではなく、絶望の媒体として演出される。それがドキュメンタリーや純粋なスポーツ映像との決定的な違いである。
レスリング映画の伝統は、リングをメタファー空間として利用する。『ビジョン・クエスト』では、リングのテクニックではなく、ティーンエイジャーが男性的な自己克服へと至る通過儀礼が描かれる。肉体はテキストとして読まれる。これは監督にとって、効果としてではなく、物語的な情報として痛みを表現できる俳優が必要であることを意味する。実際のレスラーが劇映画でしばしばより良く機能するのは、彼らが肉体の真実性、すなわち努力の中の肉体性をもたらすからである。
技術的には、ここではハンドヘルドによる動きのある映像や、静的で密にカットされたシーケンスが用いられる。リング自体は賛美されるべきではなく、むしろその逆である。それは日常、時には屈辱の場所であり、勝利の場所であることは稀である。サウンドデザインは重要になる。マットにぶつかる肉体の音、息遣い、観客やトレーナーの砕けたコメントは、音楽よりも重みを持つ。レスリング映画は、物理的な現実が真剣に受け止められ、リングが観客の内的状態に語りかけるときに機能する――逆ではない。