ドゥルーズ的概念:動きではなく時間そのものを直接見せるイメージ——内的持続。アントニオーニ、タルコフスキー:待機、沈黙、引き延ばされた瞬間が視覚的実質になる。
アントニオーニやタルコフスキーと長く仕事をしていると、すぐに気づくことがあります。それは、単に時間を含む動きを撮影しているのではないということです。むしろ、時間そのものが映像の物質となるのです。これが「時間像」です。ドゥルーズが1950年代、60年代の映画史から抽出した概念です。第二次世界大戦後、ヨーロッパでは、連続した物語に対する古典的な映画への信頼が崩壊しました。その代わりに、待ち時間、虚空へのまなざし、物語的なポイントのない歩行などが、本来の素材となる映画が生まれました。それは予算不足や退屈さからではなく、間やアクションでは伝えられないことを、持続そのものが語るからです。
現場では、これは実質的に次のような意味を持ちます。シーンを素早く語るために撮影するのではなく、ある瞬間の内的な質を捉えるために撮影するのです。タルコフスキーは、誰かが来ることを示すためではなく、その空間に時間が息づいていることを示すために、カメラを空の廊下に向けさせます。アントニオーニは、窓の外を見ている女性を撮影します。外的な行動はゼロですが、心理的な緊張、待ちきれない気持ち、憂鬱さ、それこそが映画なのです。古典的には、これはカットされるでしょう。ここでは引き延ばされます。テイクの長さが内容の形式となるのです。これは現場で異なる演出を要求します。静止していると目立つため、より正確な動き、4分間で小さな変化がわかるような、より繊細な照明設定、外的なアクションではなく内的な存在感を求める俳優への指示です。
これは、カットとモンタージュによって時間が構造化される「運動像」(古典的映画)とは根本的に異なります。時間像は、時間を示すためにカットを必要としません。それ自体が時間的なのです。45秒間、リアルタイムでゆっくりとズームインすることは、何かが起こっていることを示すのではなく、空間と意識がどのように変化するかを示しています。これは微妙であり、観客に異なる注意力を要求します。現代の映画(侯孝賢からヌリ・ビルゲ・ジェイランの作品の一部まで)では、それをそう呼ばずに、この技法が使われています。その論理は同じです。時間は物語の容器としてではなく、視覚的、感情的な素材そのものとして利用されるのです。