時間そのものをテーマにする映画——圧縮するのではなく、伸ばす、操作する、または検証する。スローシネマ。
ここでは時間は単に描写されるのではなく、素材となる。タイムベース・シネマは、主流映画で知られる古典的な編集テンポや物語の圧縮に意図的に逆らう。その代わりに、シーケンスを引き延ばし、カメラを静止させ、空白と静止をドラマツルギーの要素として受け入れる。これは退屈ではなく、観客と動きとの間の異なる交渉である。
実践的には、これは具体的に何を意味するかというと、何も起こらない空の部屋の7分間のショットが、注意の行為となる。カメラは「何かのために」撮影しているのではなく、時間そのものがメッセージとなる。小津安二郎はこれを巧みにこなした。彼のピローショットは、物語がとっくに通り過ぎた場所に留まる。マイケル・スノー、シャタル・アケルマン、アニエス・ヴァルダの実験的な時期は、彼ら皆が持続時間を形式的な声明として利用した。セットでは、撮影に忍耐強く、時計を神経質に見ないこと。編集では、「トリミングしたい衝動に抵抗せよ」。長さがポイントなのだ。
これは単なる遅さとは根本的に異なる。スロー・シネマ(そこを参照)は、物語的であることもありうる。ラヴ・ディアスやベーラ・タールを考えてほしい。そこでは時間は引き延ばされているが、心理的または雰囲気的に機能している。本来の意味でのタイムベース・シネマは、さらに抽象化する。時間は構造、知覚の機械となる。このバリエーションはデュレーション・フィルムとも呼ばれる。すべての秒が重要である、なぜならすべての秒が平等だからだ。
実践的には、これは観客の期待に対する意図的な対抗戦略である。編集リズムによる緊張感もなく、モンタージュの緊張感によるドラマもない。その代わりに、プレゼンス(臨場感)が生まれる。あなたはそれを消費するのではなく、映像の中に座っている。これは観客に再考を促し、映画製作者としては、あなたの創造的な決定に絶対的な確信を求める。編集的な正当化のないすべての秒は、意図的でなければならない。