明確な政治的またはイデオロギー的メッセージを持つ叙事映画——宣伝ではなく、脚本に組み込まれた自覚的な立場。
脚本を読めばすぐにわかる。単に物語を語るのではなく、ある立場を論じているのだ。傾向映画は、ポスターやナレーションによる教化ではなく、物語の手法を用いて、政治的または社会的な見方を映画にもたらす。これは真実を押し付けるプロパガンダ映画ではない。もっと巧妙なのだ。視点はシーンの構成、登場人物の選択、何を見せ、何が隠されるかに宿る。
セットでは、ミザンセーヌにそれが表れる。例えば、このジャンルの古典である『Z』や『missing』などの作品で知られるコスタ=ガヴラスは、カメラが決して中立でいられないようにシーンを構築する。彼は、絵の構図、編集のリズム、空間における登場人物の配置によって、味方をするのだ。単に何が起こったかを撮影するのではない。それがどのように起こったかを撮影するのであり、この「どのように」が政治的なメッセージを伝える。ケン・ローチも同様に仕事をしている。彼のイギリスの社会ドラマはドキュメンタリーではなく、長編映画形式の構造化された議論である。労働者一家が中心にいるのは偶然ではない。彼らの視点がカメラの視点なのだ。
プロパガンダとの違いは、傾向映画が矛盾を組み込んでいることにある。この形式のオーストリアの巨匠であるミヒャエル・ハネケは、曖昧さを許容する。社会危機についての彼の映画は、方向性が示されていても、観客が自分で解釈を下さなければならないように構築されている。それが、どんな明白なメッセージよりも危険で効果的なものにしている。編集においてそれは明らかになる。嘘としてのモンタージュではなく、選択としてのモンタージュだ。映画的な姿勢が見せたいものだけを見る。
実際には、傾向映画には明確な創造的な線が必要だ。監督、撮影、編集は同じ政治的なトーンで作業しなければならない。中立的なショットは存在しない。すべての照明、すべてのカメラ移動、すべての編集が議論なのだ。そのため、このような映画の撮影は骨が折れる。妥協はすぐにメッセージを弱めてしまうからだ。しかし、手段が適切であれば、忘れられないものにもなる。