時間そのものがテーマになる映画的語法—持続時間とリズムが構成の道具になる。タルコフスキー、ベラ・タル。
「時間映画」を扱う者は、ストーリーの要点よりも持続時間の感覚的な体験により関心を寄せる。映画は、物語を推進するためのドラマツルギー的な道具としてではなく、引き伸ばしたり、溜めたり、色を変えたりできる素材として、時間そのものを探求する楽器となる。タルコフスキーはこれを過激に実践した。教会堂のドームを数分間映し続けるカメラがあり、観客は何か起こっているのか、あるいは待つことそのものがすでにメッセージなのかと自問する。
実践においては、具体的には、速いカットのない長く静的なショットを意味する。緊張を高めるためのクロス・カッティングはない。モンタージュはゆっくりと、あるいは全く呼吸しない。ベラ・タールはこの分野を完成させた。彼の映像は、人物が動いていても静止しているように見える。観客は、時間を受動的に消費するのではなく、時間そのものを能動的に体験する必要がある。これは確かに骨が折れる。しかし、まさにこの摩擦こそが意図されているのだ。それは、別の形の注意力を強いる。
撮影現場では、これはテイクに動きを統合するための長いリハーサルを意味する。光の設定は、太陽の移動や、知覚できないほどゆっくりと動く影など、瞬間ごとの変化を捉えるのに十分繊細でなければならない。編集では、ドラマツルギー的な法則に依存しないリズム、むしろ写真的または音響的な論理に従って作業する。あるシーケンスは、物語的にシーンが終わったからではなく、示したい時間が使い果たされたから終わる。
これは、「時間映画」を古典的なジャンル映画や心理ドラマと根本的に区別する。それは葛藤を通じた同一化を拒否する。代わりに、持続時間の共有体験を通じて親近感が生まれる。観客は、登場人物のために待つのではなく、登場人物と一緒に映画館で待つ。これが「時間映画」をアクセスしにくくする一方で、特定の問いかけには不可欠なものにしている。静止している人間とは何か?退屈の中に何が明らかになるのか?風景はどのようにアクターになるのか?
極端なミニマリズムやコンセプチュアル・アートとの美的親和性は否定できない。「時間映画」に近づく映画製作者は、しばしば現代美術家のように、インスタレーション、空間、プレゼンスを考える。これは1970年代から今日まで、ストラクチュラル・フィルムから現代のアーティスト・シネマまで受け継がれている。