時間的ジャンプと自己言及で慣例を意識的に破る編集。固定的な意味に抵抗。
編集作業中、突然気づく。古典的なモンタージュの論理がここでは通用しない。連続したストーリーラインもなく、明確な因果関係もなく、一方的な感情の誘導もない。その代わりに、断絶、反復、意図的な時代錯誤――そしてそれは正確に計算されている。ポストモダン・モンタージュは、編集が中立であるという幻想を拒否する。それは自身の「縫い目」、自身の「構築性」を見せる。「私は現実への窓ではなく、映画なのだ」と言う。
実際の作業は、古典的なストーリーテリング編集とは根本的に異なる。従来の編集者が緊張感を高め、解決策を計画するのに対し、ポストモダン・モンタージュは「引用の美学」――雑誌のショットと1950年代のシーン、そして現代が、すべて同時に並ぶ――で作業する。これは感情的な論理ではなく、形式的、皮肉的、あるいは不条理な隣接関係によって機能する。編集ウィンドウで、その意味が順序からではなく、緊張関係から生まれるイメージを並べる。結婚式のビデオと試乗シーンを並べる――それはドラマツルギー的に適合するからではなく、その対比自体が「意味を生成する」からだ。時には意味がなく、時には多すぎる。
線形的な時間の意図的な破壊が特徴的だ。シーンに逆戻りして編集したり、物語的な理由なくショットを繰り返したり、矛盾する映像の上に音声を重ねたりする。キッチュと真面目は対等に並ぶ――互いのコメントとしてではなく、同じ素材の二つの有効な表面として。過去20年間の多くの実験的・インディペンデント作品は、このように機能する。リンチ、彼のメタ段階のタランティーノ、あるいはフランスのエッセイ映画。セットでは、この脆さに耐えられる素材が必要だ。対称性のエラー、意図的に間違った軸、明確なカット面。
最も大きな誤解は、これを任意のものだと考えることだ。その逆が真実だ――ポストモダン・モンタージュは「厳格」であり、古典的な編集よりもしばしば正確だ。なぜなら、あらゆる断絶点は正確に配置されなければならないからだ。もし慣習が欠けていれば、形式的な決定だけがその重みを担う。編集ではすぐにわかる。1フレーム多すぎても少なすぎても、皮肉はアマチュアリズムに転落する。リズムだけが唯一の骨組みだ。