ヌーヴェルヴァーグの自律性への反応:意図的な形式的過剰、皮肉、自己解体——ゴダール、リヴェット。
ヌーヴェルヴァーグは、行動の自由、カメラの主観性、古典的なモンタージュとの決別といった法則を打ち立てた。その後に続いたのは、これらの法則の継続というよりは、むしろ意図的な破壊であった。ポスト・ヌーヴェルヴァーグは、ゴダール、リヴェットらが自らの道具を自らに向ける1968年に登場する。彼らはヌーヴェルヴァーグの原則に反してではなく、むしろそれらを解体するために撮影したのだ。これが決定的な点である――進化ではなく、脱構築である。
ゴダールの『彼女について僕が知っている二、三のこと』や、後の『週末』はそれを明確に示している。カメラは反省的な武器となった。ヌーヴェルヴァーグがまだ映画的な自由と戯れていたのに対し、ポスト・ヌーヴェルヴァーグは皮肉な誇張に頼った。突然のブラックアウト、ショット間の唐突なカット、心理的に機能するのではなく、視覚的に邪魔をする音と映像の断裂。リヴェットの形式的な執着――反復的なショット、空虚な空間、テキストワーク――は、カメラの直接性をジェスチャーにまで過剰にする。これはもはやドキュメンタリー的な視線ではなく、意図的な人工性である。
セットにおいては、具体的には、ドラマチックな後付けの物語は必要ない。空の廊下を10分間撮影し、カメラは静止させ、テキストオーバーレイは映像とは無関係――これがポスト・ヌーヴェルヴァーグの精神での仕事である。照明はムードに左右されるのではなく、可視化される。ハンドヘルドカメラは、リアリティのためではなく、その視覚的な人工性のために使われる。カットはリズムの要素としてではなく、邪魔なものとして使われる。
ヌーヴェルヴァーグとの違いは、観客の欺瞞に対する姿勢にある。ゴダールやトリュフォーは、没入的に欺くことを望んでいた――人生に深く入り込むことを。ポスト・ヌーヴェルヴァーグは、あなたが「本当に何かを見ている」と信じることを常に禁じる。それは常に構築を見せる。衰退としてではなく、ラディカルな形式的な帰結として。1970年以降もカメラの直接性を信じている者は、その教訓を理解していない。