網膜画像の写真的定着——視覚知覚を直接捕捉すると主張する19世紀の理論。科学的には反証されたが、初期映画理論にとって概念的に重要。
19世紀は、眼そのものをカメラにしようという考えに夢中になっていた。比喩ではなく、文字通りである。当時、死者を眼球が硬直する前に素早く撮影すれば、網膜が写真乾板のように像を記憶すると信じられていた。この視網膜記録法(オプトグラフィー)は、疑似科学的な概念であり、「人間が見た最後の視覚印象は、化学的に眼に刻印され、抽出できる」と謳っていた。現代の視点からは馬鹿げているが、この概念への固執は、自動的で偽りのない視覚記録に対する文化的な執着という、深遠な何かを明らかにした。
初期の映画理論において、視網膜記録法は周辺的なテーマではなかった。それは、絶対的に客観的なイメージ、機械を中立的な記録装置とする夢を体現していた。写真、そして後に映画が登場すると、この夢は技術的な現実と結びついた。そこには実際に、芸術家の手や解釈なしに、受動的に現実を写し取る感光媒体が存在したのだ。視網膜記録法の考えは消滅したが、その精神は映画理論の中で生き続けた。アンドレ・バザンなどの理論家は後に写真的リアリズムについて語った。それは化学的な網膜ではなく、直接的な捉え方の幻想であった。
撮影現場や編集で、視網膜記録法に直接向き合う必要はない。しかし、この概念は「カメラ=眼、映画=現実」という根強い幻想を説明している。この連想は深く根付いている。それは、私たちが真正性、記録、そして映画的真実について語る方法に影響を与える。DP(撮影監督)が「カメラは人間の眼のように見える」と主張するとき、そこには古い視網膜記録法ロマンチシズムの残響が響いている。現実はより複雑である。すべてのカメラは解釈し、すべてのレンズは歪曲し、すべてのセンサーは独自のカラーサイエンスを持っている。視網膜記録法は、そうではないかもしれないという幻想であった。映画は網膜の痕跡ではなく、構築物である。