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ネロ
理論

ネロ

Nero in Film
Murnau AI illustration
nero film cinema of the second epoch necrorealism film noir

ローマ皇帝ネロの映画化——腐敗した暴君として描かれることが多い。パゾーリニの神話的写実主義からテレビドラマまで。

ネロは映画の黎明期から映画制作者を魅了してきた。歴史的な忠実さゆえではなく、権力、狂気、退廃、そして過剰の美学といった、視覚的な物語に必要なあらゆるものを体現する人物だからだ。ローマ皇帝は、専制、退廃、文明の崩壊に対する現代の恐怖の投影面となる。現場では、すでに完全に神話化された人物を扱うことになる。歴史上の人物よりも、象徴できるものが重要視される。

象徴的な演出は、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『ソドムの市』(1975年)に由来する。そこではネロは解き放たれた権力の原型として登場する。一人のキャラクターというよりは、絶対的な退廃の視覚的なコンセプトとして。パゾリーニは、神話的な人物を用いて、現代のファシズム批判を古代の衣装に包み込んだ。これは貫かれる戦略だ。ネロが登場する映画は、古典的な意味での歴史ドラマであることは稀だ。それらはトーガをまとった現代の寓意なのだ。もう一つの古典は、オットー・プレミンガー監督の『黄金の腕』だ。ネロの図像学を退廃のシーンに用い、記録的というよりは雰囲気的に描いている。

実際の映画制作で重要なのは、ネロという人物は視覚的なコードを通して機能するということだ。誇張された衣装、色彩の象徴性(紫、金、血)、建築の巨大さ。編集では、親密さと壮大な虚無の間のコントラストを用いる。カメラは距離を置くか、侵略的に近づくか、バランスを取ることは稀だ。照明デザインは極端なキアロスクーロに傾きがちだ。歴史的な理由からではなく、人物の内なる闇を可視化するためだ。

テレビ(特にヨーロッパの作品、1980年代から2000年代のイタリアとドイツのテレビ)は、ネロを連続ドラマの題材として発見した。なぜなら、この人物は連続的な心理描写を可能にするからだ。毎日のように新たな過剰、繰り返される偏執病、宮廷での権力闘争。ここではネロは神話的というよりはキャラクター研究として扱われるが、それでも記録的な正確さからは離れている。これは間違いではない。メディアの自由なのだ。現場に歴史家は必要ない。ネロが人物ではなく、視覚的な比喩であることを理解している撮影監督が必要なのだ。

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