イメージとアイコンへの偶像崇拝的執着——ビジュアル美学が物語より優先される。ストーリーテリングではなく映像礼拝。
編集室で、監督が主人公の女優がただ立っているだけのシーンを丸ごと撮影したことにふと気づく。長いショット。完璧なライティング。プロットのポイントも情報もない――ただその人物が画面に映っている、なぜなら彼女がそう見えるからだ。これがイコノマニー(偶像崇拝)の本質だ。映像は遺物となり、スクリーンは礼拝堂となる。物語ではなく、視覚そのものの崇拝が目的となる。
実生活では、これははっきりと現れる。キャスティングで経験するだろう。役をこなせるからではなく、その顔が売れるからスターが起用される。カメラは彼を優先的に捉える――クローズアップ、柔らかな光、シルエットを強調するミディアムロングショット。一部のカットはこの論理に一貫して従う。最も良いショットは、物語的に必要だからではなく、美しいから残される。これは機能することもある――しかしすぐに、空虚な態度に見えてしまう。
真の視覚的物語との違いは意図にある。フェリーニが人物の長いショットを作る場合、そのショットはキャラクター、雰囲気、心理状態を伝える――それは映像で語るのだ。それに対し、イコノマニーは自己中心的だ。映像は自己を崇拝する。これは特定のジャンルで特に顕著になる――ハイファッション映画、豪華な歴史叙事詩、映画を装ったミュージックビデオだ。視覚的な質はしばしば息をのむほどだが、物語的には扱いにくいか空虚だ。
現場では、これはしばしば、完璧なポーズのための過剰で長いリハーサル、単に美しく見えるだけのカメラワーク――それがドラマを推進しないまま行われることを意味する。カメラマンとして、あなたはすぐに気づくだろう。見せるのではなく、崇拝するように求められるのだ。これには場所がある――様式化は意図的な選択になりうる――しかし無意識のイコノマニーは、どんな映画も弱める。それはスクリーンをポスターに変えてしまう。