理想化された水の世界の映画的描写——逃避またはユートピアとして。都市の陰鬱さへの視覚的解毒剤。
ハイドロトピア(Hydrotopie)
撮影現場ではすぐに気づく。水が画面に入ると、海であれ、湖であれ、人工的なプールであれ、観客は別のモードに切り替わる。カメラの息遣いが変わる。音も柔らかくなる。これはハイドロトピアそのものではなく、私たち全員がそこに投影するもの、つまり「逃避」によるものだ。ハイドロトピアは、水を単なる背景としてではなく、憧憬のイメージ空間として、つまり「どこか他所ではもっと良い場所があるかもしれない」という視覚的な約束として利用する場合に、映画的な戦略として機能する。
実践的には、反射、透過光、そして慌ただしさを感じさせない動きを活かすことになる。色彩は青、緑、銀の色調に傾きがちだが、周囲がそうでなくてもそうだ。私の仕事での古典的な例は、荒廃した郊外の地区でのシーンだったが、主人公が古い川へ行くと、突然、画面構成が開き、被写界深度が深くなり、光はフィルターを通したように純粋に見えた。ここでは水は写実的にではなく、感情的・建築的に機能する。時間が別の刻み方をする場所なのだ。
ハイドロトピアの妙味は、コントラストと共に生きることだ。都市の密度と流動性、固定と流れ、日常とユートピア。サウンドデザインでこれを強調する監督もいる。水のせせらぎが都市の騒音に対する対抗の声となるのだ。他の監督は、二重性を生み出すために水中撮影や鏡像を使う。カメラはしばしばゆっくりと動くか、あるいは漂うように動く。これは、それ以前の都市部のシーンでの直線的で安定したハンドヘルド撮影とは対照的だ。
重要:ハイドロトピアは、それを感傷的な逃避ではなく、形式的な戦略として扱う限り、キッチュではない。それは、操作的な感情の波ではなく、イメージの構築、ライティング、リズムに関するものだ。映画における最高のハイドロトピアは、水のモチーフが物語に構造的に組み込まれている場合に生まれる。つまり、見た目が美しいだけでなく、登場人物の内面的な状態や、映画のテーマそのものについて何かを語っている場合だ。リミナルスペースやノンプレイスといった関連概念を考えてみてほしい。そこでも私たちは、空間を心理的な投影面として利用する。