伝説的インディスタジオ(1919–1955)——コメディ、スラップスティック、『アワゴング』シリーズ。ローチは全てを自ら監督、製作、編集した。
1920年代から30年代にかけて撮影現場にいた者ならば、ハル・ローチ・スタジオをアメリカン・コメディの殿堂として知っていた。1919年にカルバー・シティで設立されたこのスタジオは、単なる製作拠点ではなかった。それは研究所であり、ローチ自身が監督、プロデューサー、編集者として働き、創造的な骨子全体をコントロールしていた。この三位一体の役割が、彼をプロデューサー・ディレクターの原型とした。彼は、どのように編集するか、どのように撮影するか、そしてラッシュで何が機能するかを理解していた。
スタジオはスラップスティックとシチュエーション・コメディに特化していた。それはバスター・キートンやチャーリー・チャップリンのような誇張された、無政府的なスタイルではなく、より繊細でタイミングに基づいたバリエーションだった。ローチは、最高のギャグがモンタージュの中で明らかになることを理解していた。彼の撮影監督たちは、すべてのショットが編集のリズムを念頭に置いて考えられなければならないことをすぐに学んだ。有名なシリーズ「Our Gang」(1922年〜)はこのシステムの下で生まれた。本物の子供たち、本物の街の雰囲気、即興的な瞬間が、編集によって正確なコメディへと形作られた。それはドキュメンタリーではなく、技巧的に構築されたリアリティだった。
スタジオの構造自体が効率性を重視していた。ローチは速く、たくさん撮影した。週刊シリーズも珍しくなかった。それはクルーにとって、明確な指示、繰り返しのセットアップ、そして撮影現場にすでに存在していた編集ロジックを意味した。ローレル&ハーディのような俳優はこのシステムから恩恵を受けた。彼らの最高の仕事は、スタジオのリズムが彼ら自身の身体的なタイミング感覚を妨げるのではなく、強化する場所で生まれた。ローチは自分で編集するか、編集を綿密に監督した。映画におけるコメディはステージ上では起こらず、編集机で生まれるという実践的な理解を持っていた。
1945年以降、スタジオの重要性は低下した。独立系スタジオのシステムは侵食され、コメディのフォーマットは変化した。1955年にその時代は終わった。残ったのは、単一の技術的に熟練した人物が、脚本から初上映まで、創造的なプロセス全体を貫いた場合に、製作拠点がどのように機能するかを示す教科書的な例だった。