美と衰退の混在——装飾的で暗く、病的なイメージ。腐った豪華さを見せる。
デカダンスは、セットにおいては道徳的な判断としてではなく、視覚的なコンセプトとして機能する。それは、退廃、過剰、そして内面の空虚さを同時に表現する、意図的な過剰装飾である。撮影監督はここで理解しなければならない。それは美しさではなく、制御された過剰刺激なのだ。重厚な生地、それ自体が崩壊していく装飾、表面を明るくするのではなく、乱反射させる光。エレガントさの反対は醜さではなく、崩壊寸前の過剰なエレガンスなのだ。
実践的には、これは濃密なカラーパレット(ボルドー、黒、ダークゴールド)を、均一ではなく、テクスチャを持たせて使用することを意味する。角を照らすのではなく、飲み込むようなキャンドルの光。見せすぎようとし、やや対立的なカメラアングル。空間構成においては、ほとんど完璧だが、崩壊するシンメトリーを用いる。砕けた反射を放つバロック様式の鏡。動物の毛皮、脚が多すぎる家具、わざとキッチュに見える表面。編集はここではためらいがちになり、濃密な空間で長いテイクを使い、場所の移動は少なくする。これは快適さではなく、閉塞感を生み出す。
デカダンスはバロックと異なり、もはや意味を信じない。それは退廃の最中に装飾する。デカダンスなインテリアには、もはや機能的な理由はない。それは下降していく過程における純粋な表面である。これは照明に表れる。仕事のための光ではなく、もはや何も演出することがないにもかかわらず、演出された光。金色のダマスク織の前で揺らめく炎。ズームは、ゆっくりと、まるで層をかき分けるように、不本意に被写体に迫るように使うと、デカダンス的に機能する。
物語の文脈(参照:イメージ言語、ミザンセーヌ)において、デカダンスは物語の信号となる。それは、時代遅れになったキャラクター、力を失った貴族、歯止めのない過剰さを示す。カメラは道徳的に距離を置くのではなく、この退廃に参加する。記録するのではなく、共に沈むのだ。だからこそ、デカダンスはあれほどまでに不穏に感じられる。それは美的に誘い込み、同時に拒絶する。それが意図するところなのだ。