ドゥルーズの概念:過去と現在、現実と夢を同時に示す画像——明確な解析なしの二重性。
ドゥルーズがこの用語を造語したのは、ウェルズ以降の映画に現れる特定の視覚現象、すなわち、一方の時間がもう一方の時間を「説明」することなく、互いに鏡像のように映し合う二つの時間層を記述するためである。これは古典的な意味でのモンタージュではなく、過去と現在、記憶と直接的な体験が同じ映像空間に同時に存在するということである。クリスタル・イメージは、両方の層が等しくリアルに感じられ、互いに浸透し合う光学的な二重反射のように機能する。
セットや編集でこれを見ると、時間層の間に明確な階層が存在しないことがわかる。例えばウェルズの『市民ケーン』や『フェイク』では、「今、誰かが思い出している」というのではなく、両方の時間が同時に存在し、重なり合い、時には物理的に同じ映像空間に現れる。これには、夢と現実、ドキュメンタリーの事実性と主観的な歪曲の間の曖昧さも含まれる。クリスタル・イメージは「どちらのバージョンが真実か?」とは問わない。それは「両方が並行して存在する」ことを示す。この構造は、後にタルコフスキー、リンチ、あるいは古典的なプロット・フラッシュバックを意識的に拒否する現代映画の作品に見られる。
実際には、クリスタル・イメージを構築したい場合、明確なカットやボイスオーバーのマーキングで作業してはならない。光学的なオーバーラップ、二重露光、微妙なグレーディングのシフトを利用するか、あるいは空間が同時に存在しうるように似たように見せる――二つの場所、二つの瞬間、一つのイメージ。カメラは「どちらの層が『リアル』なのか」を「語る」のではなく、中立的でなければならない。これにより、ドゥルーズが記述した、この二重化の滑らかな印象、この啓蒙と不確実性の間の浮遊状態が生み出される。
これは、フラッシュバックや古典的なポイント・オブ・ビュー・モンタージュの考え方とは根本的に異なる。クリスタル・イメージには、「以前のことを思い出せ」と言う外部の語り手がいない。代わりに、映像の構成そのものがこの同時性を生み出す。観客は、思い出されているという経験ではなく、自分がどの時代にいるのか、そしてそれがそもそも区別できるのかについての視覚的な不確かさを体験する。