顔やシーンがカメラの前で現実より良く見える性質——純粋な映画現象。1920年代のフランスの概念で、映画的なものと写真的なものを区別する。
フォトジェニー(Photogénie)
カメラは魔法をかけるか、あるいは破壊する。ある顔はレンズの前で、現実にはありえないほどの存在感を放つ。俳優は対面しているとぼんやりしているように見えても、モニター上ではアイコンとなる。これがフォトジェニーだ。美しさでも、技術だけでもない。顔の造作、光の波長、そしてフィルムエマルジョン――あるいは今日のセンサー――との化学反応なのだ。
1920年代のフランス映画理論は、映画が写真でも演劇でもないことを表す言葉を必要としていた。ルイ・デリュック、ジャン・エプスタイン、そして彼らの同時代人たちは観察した。映画のイメージは独自の文法、単なる視覚的な現実を超えた輝きを持っている。石ころでさえフォトジェニックになりうる。動き。肌に当たる光。カメラに寄り添うこと――あるいは時としてそらすこと――がこの質を生み出す。それはメイクアップだけでは作れず、照明だけでも作れない。それは総体として生まれるのだ。光学、エマルジョンの特性、動き、タイミング、そして映画だけが捉えられる微細な表情。
セットでは、モニターでそれがわかる。テイクを撮影していて、ふと――そこに――顔が演じるのをやめ、存在する瞬間を目にする。深みや次元を失ったわけではないが、カメラはレンズの間でしか生きない何かを掴み取ったのだ。グレタ・ガルボはフォトジェニックだった。美しいからではなく――未熟さがカメラの前で芸術形式になったからだ。カール・テオドア・ドライヤーはそれを理解していた。彼のカット、彼のクローズアップは、無意識の場所から夢のようにフォトジェニーを引き出した。
実践的には、フォトジェニーによるキャスティングは魅力によるキャスティングではないということだ。最高の俳優とは、あなたの正確な光と編集のリズムの中で、生きては存在しない性質を発達させる顔を持つ者である場合がある。2.39:1ではフォトジェニックな人もいれば、1.33:1でフォトジェニックな人もいる。カラーはフォトジェニーを破壊することがある。白黒はそれを明らかにするかもしれない。これは間違いではない――これはメディアの本質だ。映画は存在しない現実を創造するのだ。