1912年創立の日本映画製作会社——アクション、B級映画、ピンク映画で知られる。技術革新が日本映画を定義した。
日活は、長年にわたり日本の映画を技術的・物語的に牽引してきたスタジオシステムであった。単なる制作会社としてではなく、他では考えられないような映像言語やジャンルの融合の実験室として機能した。1912年に設立された同社は、エンターテイメントと実験の境界線が曖昧になる地点を見抜くセンスを培った。これが日活をヨーロッパやアメリカのスタジオと根本的に差別化した点である。ここでは、実験的なモンタージュを用いたアクション映画が制作され、exploitation(搾取)的なテーマはリアルタイムのドキュメンタリー美学で表現され、1960年代から70年代にかけてのいわゆる「ピンク映画」の波は、より制限的な文脈では実現不可能だったであろうカメラテクニックを探求するために、同社がいかにソフトコアな物語を利用したかを示している。
この哲学の実践的な帰結は、絶え間ない技術的リスクへの意欲であった。日活の撮影監督たちは、確立されたスタジオ競合他社よりも高速なフィルム、より機動性の高い機材、そしてより迅速な編集リズムで作業した。それは必要に迫られたからではなく、美学的な意図からであった。こうした機敏さによってアクションシーンは、より硬直した大作とは異なる直接性を獲得した。日活で活躍した鈴木清順のような監督は、保守的な会社よりも同社が少ないイデオロギー的抵抗を構築したため、ジャンルの枠組みの中に自身の視覚的実験を織り込むことができた。
セットの実務家にとって関連性の高い点として、日活の作品は、ジャンルと芸術的アバンギャルドが対立するものとして扱われなかった時期を記録している。この時代のピンク映画の色使いを分析したり、アクション映画のカメラワークを研究したりする者は、制作会社がいかに経済的制約を視覚的戦略に転換したかを見ることができる。利用可能な機材の性質、撮影の速さ、これらがルックの一部となった。日活のアーカイブは、ある意味では映画史というより実践的な教材である。システムによって強制されたからこそ機能した技術的即興演奏の記録である。
1980年代以降、日活は制作の巨人としては姿を消し、巨大な垂直統合型日本映画スタジオの時代は終焉した。しかし、日活の作品が提起する問いは残る。画質を犠牲にすることなく、いかに映像制作を加速させるか?ジャンルの慣習を実験空間としていかに活用するか?これらは、予算と締め切りが縮小する今日、再び現実味を帯びてくる問いである。