制御されない視覚的流れ——論理なき連続的イメージ関連付け、サイケデリック映画に典型的。
編集室で、監督から物語構造を受け入れようとしない40分間の素材が渡されたことに気づく。カットからカットへの繋がりは論理ではなく、連想によって生まれる――目が月になり、月が時計になり、時計が鳥になる。これがイマゴルヘー(Imagorrhöe):物語の文法や因果関係を無視した、映像による意識の流れ。混沌ではなく、コントロールの正反対――素材の精神から流れ出す、一種の映画的な溶岩だ。
実際には、これは古典的な編集技術で対応できないことを意味する。モンタージュはモチーフやアクション・リアクションではなく、視覚的な共鳴――互いに踊る色彩面、動きの方向、テクスチャ――によって機能する。顔の上の光は、人が工場に入ってこなくても、空っぽの工場ホールの光と結びつけることができる。これは悪いストーリーテリングではなく、別の文法だ。映像が何を語っているかを見るのではなく、映像が何を振動させているかを見るのだ。
典型的には、イマゴルヘーは実験的な作品、サイケデリックなシーケンス、あるいは世界を整理することを拒否する芸術的なドキュメンタリーに見られる。ゴダールの後期作品にも見られた。タルコフスキーの物語間の通路。しかし、ジェームズ・ホイットニーやオスカー・フィッシンガーのような現代の芸術家も、この言葉を使わずに、これに取り組んできた。合理的なコントロールが緩むと、目はそのように機能するため、素材は流れる。
重要:イマゴルヘーは偶然ではない。それは明確な形式的な決定――リズム、繰り返し、テクスチャの交換――を必要とする。コントロール喪失の様相が、コントロールの道具となる。セットでは、素材がそのような流れに入ることを知っているなら、シーンではなく、音楽のように移動できる視覚的なモジュールで、すでに映像で考えなければならないことを意味する。空間よりも色空間が重要。動きの動機よりも動きが重要。これは物語のゲームではなく、形式的な詩なのだ。