暴力と流血がそのもの自体が物語のフィルム——物語性なく、ただ効果のため。純粋な感覚的スペクタクル。
察しはつくはずだ。監督がシーンを撮っていて、突然、血が飛び散る。物語がそれを求めているからでもなく、キャラクターがそれに打ちひしがれているからでもない。ただ、特殊メイク用の血糊の予算があり、誰かが「暴力描写だけで観客は掴める」と考えたからだ。これが「ブラッド・オルギー」の本質だ。理由なき効果、それ自体が目的のスプラッター。現場ではすぐにわかる――編集は必要以上に長引き、カメラは傷口に留まり、サウンドデザイナーは効果音に酔いしれる。それはもはやドラマティックな勢いではなく、産業規模の覗き見趣味だ。
正当な暴力描写との違いは、物語上の意図にある。三池崇史やデヴィッド・クローネンバーグが血を使うとき、それは視覚的またはテーマ的な論理の中で行われる――何かの意味を持つか、限界を探求する。それに対し、ブラッド・オルギーは形式的に任意だ。どこで、どのシーンで、誰に対してでも起こりうる。編集が論点となり、物語ではない。撮影中に気づくはずだ。突然、動機や結果について誰も尋ねなくなる。ただ演出の強度だけが問題になる――血はどれだけリアルか、音はどれだけ大きいか、カメラはどれだけ長く映し続けるか。
実際のワークフローでは、これは深刻な問題になりうる。監督は、1つで十分な場合に5つの暴力シーンを計画する。特殊メイク用の血糊、スタントダブル、テイクの繰り返しがさらに必要になるため、予算のプレッシャーは高まる。そして後で編集するとき、シーンが噛み合わないことに気づく――ドラマツルギー的にではなく、視覚的にだ。なぜなら、各シーンが物語の一部として機能するのではなく、それ自体で演出されているからだ。
厄介なのは、ブラッド・オルギーは技術的には見事である可能性があることだ。特殊効果は完璧に見えるかもしれない。しかし、それは空虚なままだ――観客を感動させるのではなく、疲れさせる。これは、物語に根ざした過激な暴力やボディホラーとは異なる。ブラッド・オルギーとは、職人技が物語に取って代わる瞬間なのだ。