根こぎ、移民、文化的アイデンティティを探る映画——二つの国の間の映画人。形式ではなく主題。
ディアスポラ・シネマは、映画製作者が二つの故郷の間で活動するところに生まれる。それは形式的な運動ではなく、テーマ的な定数として存在する。監督は安定した文化的立場からではなく、その断裂そのものから撮影する。これは、しばしば移住を主題として扱う移民映画や亡命映画とは根本的に異なる。ここでは、根の喪失そのものが視点そのものとなる。
実際には、これは物語が言語、帰属意識、郷愁を物語的にではなく、視覚的に交渉することを意味する。ディアスポラ映画は、二つの文化の視覚コードを同時に用いる。それは、故郷であるために異質に感じられる空間、その真正さゆえに間違って見える儀式などである。モンタージュ自体が不連続になることがある。それは美学的な計算からではなく、連続性が嘘になるからである。セットでは、ロケ地の物質性が重みを持つ。カメラマンがロンドンを知っていれば、ムンバイのカフェは違って見える。南アジアの窓を無意識に連想させる照明であれば、ロンドンのリビングルームは冷たく見える。
ディアスポラ・シネマをドキュメンタリーの旅行映画と区別する点:外部からの視点がないこと。視線は絡み合っている。これにより客観性は不可能になると同時に生産的になる。ディスロケーションやサード・シネマといった概念と関連があるが、より具体的である。政治的なマニフェストというよりは、視線の実存的なあり方である。一部の映画製作者は意図的にこの領域で活動している(ディーパ・メータ、ミラ・ナイルの初期作品)が、他の人々は自身の伝記的な状況がそれを強制するためにこの領域にたどり着く。
編集においては、ディアスポラ・シネマはリズムの離断として現れる。タイムゾーンを飛び越えるカット、異なる言語の声を重ねるサウンドデザイン、説明的な映像の拒否。観客は自ら根の喪失を感じるべきである。これは、二つの言語で夢を見て、どちらも正しく話せないという感覚の映画的等価物である。