プロット論理より叙情的画像言語を優先する物語形式——リズム、沈黙、視覚的隠喩。
カメラを扱う者なら、誰もが経験する瞬間がある。物語としては何も進展しないが、編集を支えるほどの視覚的な力を持つシーンを撮影したとする。それが「詩的映画」である。これは、物語よりも視覚的なリズムとイメージの比喩を優先する制作方法だ。ここでは、物語が詩のために奉仕するのであり、その逆ではない。
現場では具体的に、セリフではなく沈黙で作業する。時間を引き延ばすカメラワークを用いる。説明せずに意味を伝える構図を用いる。「詩的映画」は、語られないもの、カット間の間、カットではないトランジションによって生きている。モンタージュはリズム作業となる。森の2秒、顔の3秒、水の8秒。これは恣意的ではない。楽譜のない音楽なのだ。
実践においては、撮影に忍耐が必要となる。息づく長いテイク。可視性ではなくムードを作り出す照明設定。物語的なインスタンスとしての色彩。喪失には青、両義性には灰色。カメラはゆっくり動くか、全く動かない。動くとしても、意図がある。パンは思考の動きになり得る。ズームは時間を引き延ばすことができる。
歴史的には、このジャンルは実験映画やアバンギャルド映画と結びついている。ブレッソンやタルコフスキーのような作家がこれを完成させた。現代のアルトハウス監督であるハネケやツァイ・ミンリャンも、同じ領域で活動している。しかし、これはエリート主義の問題ではない。「詩的映画」は、観客に補完を強いることでサスペンスを生み出すことができる。無意識が残業しているのだ。
物語映画との根本的な違いはこうだ。古典的なプロットが「これが次に繋がる」と言うのに対し、「詩的映画」は「これはあれと同じである」と言う。因果関係ではなく、連想だ。これはすべてを変える。編集のリズム、サウンドデザイン、さらには観客の忍耐力まで。そして、物語という杖なしで作業するため、撮影はより困難であることは間違いない。