1950–70年代イタリア映画:日常的混乱と社会的偽善を風刺するダークコメディ。Monicelli、Germi、Scolaが定義——陰鬱、下品、容赦ない。
編集室で、1950年代から70年代にかけてのイタリア映画が、当時のハリウッドがコメディとして売り出していたものとは根本的に異なることを実感する。コメディア・デラル・イタリアーナ――それは笑いではなく、居心地の悪さだ。カメラは、小市民、詐欺師、失敗した人生を送る人々を捉え、その日常的な妥協を、事件現場を記録するのと同じ冷静な精度で記録する。モニチェッリ、ジェルミ、スコラ――これらの監督たちは、道徳が崩壊し、社会が偽善に満ちているところにこそ、最も深いコメディが生まれることを理解していた。
実践的な側面:これらの映画は、グロテスクさを誇張するのではなく、それを日常として提示するドキュメンタリー的な美学で制作されている。編集は無駄がなく、音楽はしばしばミニマルまたはジャズ調で、照明は自然に近い――そして、同時にコミカルで不快な出来事が起こる。男が銀行強盗を計画するが、些細なことで失敗する。妻が犯罪の共犯者になる。従業員が上司のためにすべてを犠牲にするが、上司は後に彼を無視する。これらのシーンをテンポの良いギャグでつなぎ合わせるのではなく――不条理さが耐え難くなるまで、息をさせるのだ。コメディは、スラップスティックではなく、タイミングから生まれる。
ファルスやアメリカのスクリューボール・コメディとは異なり、ここでは解決策も、感傷的な逃避策もない。コメディア・デラル・イタリアーナは、しばしば苦く、あるいは無関心に終わる――登場人物は麻痺しているのではなく、ただ皮肉になっただけだ。これが、現代の観客にとって興味深い点だ――これらの映画は、政治的・社会的な偽善を永続的な状態として描いているため、古びない。彼らはネオレアリズモのトーンを受け継いだが、その理想主義的な可能性を窒息させ、ブラックコメディに置き換えた。
セットや編集での仕事のために:各シーンには二重のレジスターがあることを理解すること。セリフは些細なことかもしれない――サブテキストは有害だ。カメラは裁くことなく観察する。観客は、笑っている自分に罪悪感を感じるべきだ。これが、この美学の核心――楽しませることではなく、刺激することだ。