古典的な物語構造を放棄——視覚的構成と監督の意図が優先。ゴダール、タルコフスキー、アントニオーニの初期作品。
アートフィルムを制作する者は、プロットの解決には関心がなく、構図、タイミング、壁に当たる光の質を5分間かけて追求する。セットにいるとすぐに違いがわかる。アートフィルムの監督は、アクションのある脚本ページではなく、スケッチ、カラーチャート、あるいはシーンに関するたった一文を持っている。主人公が問題を解決し、対立がエスカレートし、解決するという、古典的なジャンルの期待は消えたわけではない――それらは無関係なのだ。
視覚的なフォルム言語が絶対的な中心にある。具体的には、編集はドラマのテンポに従うのではなく、美学的な論理に従う。2つのショット間の移行は、物語がそれを要求するからではなく、色、動き、あるいはリズムがそれを正当化するから起こる。例えば、タルコフスキーは、何かが起こっているからではなく、その遅延がメディアそのものを探求しているから、何分も空虚な風景の上をカメラを動かす。これは根本的に反物語的であり、必ずしも反ドラマ的ではない。緊張感はあるが、それは物語の緊張感からではなく、形式的な緊張感から生まれる。
制作における実際的な意味は、照明セッティングに時間がかかり、古典的な意味でのテイクは少なくなるが、カメラの動きと構図のバリエーションは増えるということだ。DP(撮影監督)はここで視覚芸術家のように働く――各ショットはそれ自体で成り立つ絵画だ。ゴダールはこれを最も一貫して実現した。彼は、物語の論理ではなく、形式的な類似性や差異によって語られるイメージを並置する。最初は衝撃的だが、それは観客の目を新しく訓練する。
アートフィルムと他の形態との境界線は明確ではない。傑出したジャンル映画は、個々のアートフィルム的な質を持つことがある。逆に、アートフィルム(やや軽蔑的に)は、形式的には興味深いが、内容的には空虚であるという意味にもなりうる。しかし、それは誤解だ。初期のアントニオーニは、ドラマチックなシーンや説明なしに、純粋な構図と編集のリズムによって深い心理状態がどのように伝えられるかを示している。これは恣意性ではなく、別のレベルでの精密さだ。アートフィルムを理解したい者は、物語を聞くのではなく、イメージを読むことを学ばなければならない。