既存の楽曲カタログを基にした物語音楽劇——物語は既知のヒット曲を枠づける。『マンマ・ミーア!』、『キンキーブーツ』など。
編集室に座っていて、監督が「ストーリー全体がABBAの曲を演奏するためだけにあるとしたら、どうやって編集するんだ?」と尋ねてきたとしよう。――まさにそれがジュークボックス・ミュージカルだ。音楽を必要とする物語ではなく、ヒット曲のカタログが物語を正当化しなければならないのだ。
実際には、ナレーションは骨組みに過ぎない。プロデューサーは、ABBA、Queen、Elton Johnのようなアーティストやソングライターのヒット曲カタログを基盤にし、その周りにプロットを構築する――逆ではない。『マンマ・ミーア!』が典型例だ。ギリシャの島での結婚式の物語は薄っぺらだが、ABBAの曲がぴったり合い、観客はキャラクターの感情的な弧ではなく、「ダンシング・クイーン」や「ウォータールー」のために来る。キーンキー・ブーツではより繊細になる――Elton Johnの選曲は(靴工場、アイデンティティという)テーマに実際に合っているが、ここでも音楽が先だった。
監督や撮影監督にとって、視覚的な優先順位は大きく変わる。音楽がシーンを強調する(古典的なミュージカル、ミュージカル映画を参照)のではなく、ヒット曲を正当化しなければならないシーンを撮影するのだ。これは編集ロジックにつながる:パフォーマンスとストーリーの瞬間の間の素早いカットで、人工性を乗り越える。楽曲はしばしばよりステージ的で、直接的――映像への心理的な統合は少なく、ショーとしての瞬間が多い。観客は、その曲をすでに愛しているので、この断絶を受け入れる。
課題は、カタログ曲の真正性(ファンはオリジナルアレンジを期待する)とドラマの妥当性の間のバランスにある。失恋の歌は、物語がそれを計画していなかったとしても、シーンに合わなければならない。だからジュークボックス・ミュージカルはしばしば作り物のように見える――そしてそれはそれでいいのだ。観客は何のために来るかを知っている。映画化作品(『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー・アゲイン』など)は、ドラマの洗練さではなく、ロケーションの華やかさやスターの力で、この人工性を補おうとすることが多い。