音楽、ダンス、風刺を組み合わせた短い演劇形式——断片的、社会批評的。映画では、モンタージュと不条理なナラティブの手法。
映画におけるキャバレーは、舞台とは異なり、ノスタルジックな断片ではなく、語りの原則として機能する。ボブ・フォッシーはこの点を理解していた。彼の『キャバレー』(1972年)は、レビューの構造を装飾的にではなく、物語の文法として利用している。各ナンバーは物語をコメントし、セリフでは表現できない感情を凝縮する。キット・カット・クラブの舞台は、反射面となる――これは単なるショーではなく、意味を担うものなのだ。
セットや編集作業では、キャバレーをモンタージュ技法として扱う。リアリスティックなシーンと様式化されたパフォーマンスの瞬間を飛び越える――つなぎ目も説明もない。これにより、断絶による緊張感が生じる。登場人物がまだセリフを言っている間に、ミュージカル・シーケンスにカットすると――突然、観客は3分間の説明よりも、その人物の内面状態をより深く理解する。リチャード・リンクレーターはこれをより繊細に利用している。彼の対話映画では、説明するのではなく、息をさせるようなパフォーマンスの瞬間が現れる。歌、ダンス・シーケンス、カメラの前での哲学的なモノローグ――それは邪魔することなく、中断する。
実際には、キャバレーの要素を装飾ではなく、編集戦略として計画することを意味する。リズムが変化する――自然主義的なテンポから音楽的な時間性へ。これには、音楽との異なる関わり方が要求される(参照:ディジェネシス)。歌は世界のの一部なのか、それとも外にあるのか?古典的なキャバレー映画では、この境界線は意図的に曖昧にされる。あなたは、物語と自己コメントを同時に行う、二重にコード化されたシーンを撮影する。
映画的なキャバレーは、音響技法としても機能する。パフォーマンスが進行中でも、その下にセリフやサウンドデザインを重ねることができる。これにより、物語の密度が高まる。演劇が分離するもの――舞台はこちら、観客はあちら――を、映画は混ぜ合わせる。これが、映画におけるキャバレーを、ジャンルではなく、感情凝縮の方法たらしめているのだ。